« 2006年1月 | トップページ | 2006年4月 »

2006年3月

2006年3月 2日 (木)

ニュースレター第79号 アムール河のニトロベンゼン汚染による民族の危機をどう乗り切るか 先住民族ナナイの村・シカチアリャン住民の声

ユーラシアンクラブニュースレター第79号2006年3月1日


新春交歓会で『ナナイの村自立支援チャリテイコンサート』実施など発表  大野 遼

    18日、近年恒例となってきた新春交歓会がなごやかに開催された。お世話になっている多くの方々が一同に会し、中でも30年余私淑してきた加藤先生は相変わらずお元気で、参加者への含蓄のあるメッセージを送り、アザミの歌でしめていただいた。テルメズの仏教遺跡の発掘のため3月下旬から2ヶ月間、ウズベキスタンに滞在される。お元気な84歳。参加者全員が楽しく過ごし、力が沸いてくる交歓会となりました。

    また交歓会に先だって、この一年間の活動の方向について話し合う懇談会が2つ行われました。一つが、今年12月25日、日本橋公会堂で開催される「アジアシルクロード音楽フェスティバル」準備懇談会。二つ目が、「燃料電池」を軸とした循環型自立型エネルギーを模索する「ユーラシアンフォーラム大地の学校」準備企画委員会。この二つの懇談会、新春交歓会を踏まえて今年の活動は以下のような方向で進められることとなりました。

     Ⅰ 前号で報告したとおり、松花江-アムール川のニトロベンゼン汚染で貧しい村が崩壊の危機にある少数民族村シカチアリャンについては、「魚を獲る(漁労)ことも禁止され、伝統的暮らしが否定され、収入が閉ざされ、パンを買うこともできず、魚を食べることもできない」状況にありながら、仕事場を確保し自立を希望している村民の声(別添)を踏まえて、生活維持と自立支援のため募金活動を展開することになりました。募金はクラブを通して村に直接届けるほか、現在開設準備中の村役場の募金口座を公開して寄付を募ることになりました。募金活動には、アジアシルクロード音楽フェスティバルの出演者に協力をお願いしたところ、出席アーチストらの理解をいただき6月中旬に、「ナナイの村自立支援チャリティコンサート」(仮称)を開催、7月中旬に村への協力促進ツアーを実施することになりました。次号で詳しい日程を公表します。

     Ⅱ 「大地の学校」については、出席したサハ共和国、アフガニスタン出身の仲間のほかウズベキスタン、ウイグル、モンゴル等の友人らとクラブの若林一平氏が事務局を構成し、活動の方向を話し合うことになりました。石油天然ガスから太陽と水を活用した自立型エネルギーへの転換は、難しい技術的な課題がまだあるとはいえ、急速に進展することが予想され、少数民族にとっては大変重要な課題になっています。人類が陥っている閉塞状況からの脱却の願いも託して取組んでいきたいと思います。

      Ⅲ 昨年から関係が強化されているキルギス大使館とユーラシアンクラブや私との関係は引き続き深まっており、新春交歓会をはさんでの話し合いの結果、キルギス共和国イッシククル州と日本、アジア各地との交流を促進する提案書を私が執筆することになり、8月下旬には、観光文化交流促進視察団が組織されることになりました。また来年日本でキルギス映画祭を開催するために、キルギス映画監督協会や日本映画学校との協議も始まっています。

      Ⅳ 日本橋公会堂のアジアシルクロード音楽フェスティバル開催に並行して、中央区小学校校長会、中学校校長会に私が出席し、児童にアジアの心を届けるミュージックキャラバン事業を説明した結果、泰明小学校、日本橋中学校などで四月以降事業が実施されることになりました。時代を担う子どもたちに、邦楽がアジアの音楽の一部であることを知ってもらいながら、日本がアジアの一員であるとの理解をひろめていきたいと思います。福島、群馬、愛知、神奈川、広島、山口、宮崎その他でもミュージックキャラバン事業が検討されています。

    新春のご挨拶も含め近年模索している「アジアシルクロードの文化発信拠点」の確保についても引き続き努力したいと考えています。皆様の変らぬご支持をお願い申し上げます。
    【シカチャリアン生活維持と自立支援(仮称)募金】送付先
    郵便口座名:ユーラシアンクラブ 口座番号:00190-7-87777
    通信欄にシカチャリアン支援と明記してご送付下さい。皆さまのご理解とご支援をお願い申し上げます。
    【写真】アザミの歌を唄う加藤先生 撮影:若林一平


ナナイの国民的歌手:コラ・ベルディが歌うCD「WHITE ISLAND]をシカチアリャン理解のために

    北方民族やナナイ族、シカチアリャンなどを理解し、支援する上で最適なCD 
    シベリアの雄大な自然を彷彿とさせる伸びやかな歌声 お求めやすい価格 送料込み2,500円 

    コラ・ベルデイはハバロフスク地方ナナイ区ムハ村で1929年5月に生まれ、1993年12月に亡くなりました。ロシア連邦功労芸術家として少数民族出身のロシアで最も有名な歌手でした。ソフトな甘い声で、伸びやかに歌っています。

    CDには、シベリアの少数民族の歌18曲を収録。ナナイの歌3曲、エベンキの歌3曲、サアミ2曲、マンシ1曲、ドルガン1曲、チュクチ1曲、ユカギール1曲、エスキモー1曲、ハンティ2曲、ウリチの曲1曲、イテルメンの曲1曲、ヤクートの曲1曲となっています。最後の歌が「ナナイの漁民の歌」です。

    【お問合せ、お申し込み先】ユーラシアンクラブ FAX:03-5371-5548 E-MAIL:paf02266@nifty.ne.jp ファックスかメールでご連絡下さい。【販売価格】2,500円送料込み


エネルギー革命の時代に希望を~「ユーラシア大地の学校」開設に向けて 第二十一回

「イチバンエライヒト」は水素だった=大地の学校準備企画委員会報告 報告者:若林一平

    黒澤明監督作品の映画「デルスウザーラ」の中でデルスが「イチバンエライヒト」と呼んだのは太陽である。その太陽を構成する元素の80%が水素なので ある。この水素が持つ巨大な潜在エネルギーが地球にあらゆる恵みを与え続けてきたのである。デルスが「イチバンエライヒト」と呼んだのは全く正しい。水 素は宇宙で最もありふれた物質であり,宇宙そのものの起源が水素にあると言ってもよいのだ。この水素、地球上では水という形であまねく存在している。水 は水素と酸素とからなる化合物であり,言うまでもなく水は僕らの命のふるさとである。

    2月18日午後3時から、東京青山こどもの城8階会議室で、大地の学校準備企画委員会が開かれた。ユーラシア、そして日本の各地から馳せ参じた人びと は20名。この日の集まり、まずは小さな燃料電池自動車を走らせる実験から始まった。燃料電池は水素を燃料とする発電所である。水素を供給し続ければ、この発電所は電気を発生し続ける。水素を燃料とするといっても何か特別なことをしてやるわけではない。この日使用した燃料電池本体は特殊な高分子膜を閉じこめただけの単純な構造の小さな板に過ぎない。この板の両側から水素と酸素を送り込むだけで、電気が発生するのである。

    実験では薬局で求めた「精製水」を電気で分解してまず水素と酸素を作る。こうして得た水素と酸素を原料として電気を発生させて小さな自動車を走らせた。会場では走る自動車に直接手で触れてみることにより水素に蓄積されたエネルギーを体験することができた。ライハスローさん、アブライティさんが率先して体験役を買って出た。

    この実験の要点は水素が電気の貯蔵庫になるということである。太陽光や風力を利用して水を電気で分解して水素を製造できれば、この水素の貯蔵がすなわち将来に向けての電気の備蓄になる。太陽と風と水、これらの組み合わせが無限のエネルギーの源泉になるのである。

    続いて、ちょうど1年前にユーラシアンクラブ主催で実施された北海道別海町の、牛の糞尿を活用した水素エネルギー生成貯蔵施設についての報告がビデオ映像により行われた。この報告には大いに関心が集まった。アフガニスタン、ロシアのサハ共和国、などでも別海のような循環型エネルギーの仕組みを構築できないかとの期待が表明された。

    クラブ代表の大野さんからは、命の故郷としての水資源の重要性が指摘された。折しも松花江の化学汚染の結果、下流域のアムール川を生計の源泉としているシカチアリアン村が存亡の危機にある。循環型で自立型のエネルギー社会の基礎には「きれいな水」があることを再確認しておくべきだ。
    自立型エネルギー社会を推進するプロジェクトのための事務局の発足を確認してこの日の集まりを終えた。
    【写真】会場を疾走した燃料電池自動車(車台に乗っているのは、右から順に、燃料電池、円筒形の水素と酸素のタンク、電気モーター)


心中穏やかならなぬ年の旅はじまり「極寒のトラは氷結したアムール川に潜んでいた!」1 河野眞一

    1月8日東北地方は記録的な豪雪続き。小学6年生から当文化会館でバンド活動を続けてきた「ミレイ」の成人式。一際眩しく頼もしいメンバーと特別にステージの上で晴れの記念撮影を済ませて、予定を一日早めて新潟に前泊するため門川町を発った。21時過ぎ新潟駅で出迎えてくれた大野さんとホテル近くの居酒屋での苦い酒を飲みながら夜更けまで旅先への思いをつのらせる。

    中国・吉林省の石油化学工場爆発事故による松花江の汚染が拡大し、アムール川に流れ着いた有毒物質は、川を生活の糧とするシカチャリアン村の先住民・ナナイの民の死活問題であり、その救援策の見当がつかないのである。苦悩する大野さんの心中察するに余りある。

    翌日兵庫県から参加した小島さんと新潟空港で合流して18時頃ハバロフスク空港に着いた。空港には予期してなかったグリゴーリさんが陽気な友人と二人で自家用車を仕立てて歓迎してくれた。グリゴーリさんとは一昨年の夏以来1年半ぶり2度目の対面でなんとなく懐かしいが、自分には小島さんのように抱き合って再開を喜び合うことができない。

    ホテルに入る前に鮮やかに電飾されたレーニン広場を案内してもらった。氷の彫刻像や若い恋人達の抱き合うロマンティックな光景に思わず手袋を抜いて夢中になってシャッターを押し続けていると指先が異様な感覚に陥った。到着早々の大失敗、零下30度の自然現象を改めて知らされたのである。急いで車に戻り太ももの下に敷いて暖めるが指先の感覚が中々戻らない、もしや凍傷ではないかと心配したが数分後、少しづつ感覚が戻り始め一安心した。

    今宵はインツーリストホテルで一泊する。旅の衣を整えながら観るハバロフスクの夜景は絵のように美しい、特に聖ロシア教会のコバルト色のシルエットが心を癒す。一夜明けて窓の外を眺めると遥か彼方に真っ白に氷結し、まるで沿海州を飲み込みそうな大河が曲がりくねって横たわっている。

    シカチャリアン村で初の大豆会議
    10日10時ごろボルシチとパンそしてまるで猪のような歯応えの豚肉等遅めの朝食を終えて再び訪れたレーニン広場は、きらきらと輝く氷の彫刻像群の昨夜とは一味違った異国情緒をしばし楽しませてくれる。中央市場(今回は撮影が不可能だった)にて食料を調達、夕方4時過ぎ白銀に映えるアムール川畔のシカチャリアン村ユーラシアンクラブキャンプに到着した。キャンプの入り口にはカラフルに彩られた日本語の看板が立てられていた。(以下次号)
    【写真】キャンプ入り口付近、右が看板 撮影:河野真一


ネパール音楽とパンチャ・ラマの学校支援活動(3) Pancha Lama パンチャ・ラマ

    ネパール サララヒ「スリ ジャナヒット パンチャ イサカ」小学校
    2002年2月、パンチャ ラマは久々に故郷へ帰り、自分が学んだ学校を訪れたところ、学校の変わりように目を疑いました。緑豊な学校の面影は無く、ほこりにまみれ、雨漏りがひどかった。トイレも無い。机や椅子も充分ではない。それでも、けなげに学んでいる子供たちを見ていると、なんとかこの子達のために力になれたら…と思いました。

    戦争で親を無くした子供たちや、希望を失ってしまったネパールの子供達に教育の基盤を与えることは出来ないか?私に何が出来るか?そんな想いで2002年よりチャリティコンサートを企画しました。日本のみなさんが協力してくれたおかげで、私の生まれた村に、新しい学校を建てることが出来ました。現在は150人の生徒たちが通い、戦争で親を失った子供たち15名がそこで生活し、勉強しています。

    2003年1月7日に初めて学校建設式典を行い、近隣の小学校の生徒達や村人達が参加し約1万人に達しました。式典では、グルコリ村「チェトナサンデス」というボランティア団体より表彰され、また生徒達がダンスを披露してくれるなど盛大に終える事が出来ました。子供達は朝からこの学校で式典の準備をし、この日はあいにく曇り空で肌寒い1日でした。

    式典は午後2時より4時頃まで行われ、式の最中に立ち上がる生徒や、おしゃべりをしてうるさくした生徒は棒で殴られそうになる姿がありました。当初、4つのクラスルームと職員室、トイレという設計でしたが、建設する度に少しずつ大きくなっていったようです。この時は、まだ建設中で80%ぐらい完成していました。
    2003年より毎年1月に学校へ訪問し、コンサートや交流会を行なっています。

    2004年1月に「パンチャイサカ」学校を訪問した時は、学校は完成しておりました。学校ができ、子供達が勉強する環境になりましたが、ネパール行政区への登録が必要で、また登録料が必要になりますが、この時点では保留になっていました。また、先生の給料、学校維持費、教材等、まだまだ必要なものはたくさんあります。

    物価が上昇し、材料費など予算オーバーをしているのが現状で、子供が増えれば先生も少しずつ増やしていきたいと思っております。希望の生徒が増えれば先生も少しずつ増やしていかなければなりません。学校がうまく運営し、子供達が成長していく姿を見守っていきたいので、少しづつではありますが協力していくつもりです。

    これまでの主な支援と目標
    これまで「スリジャンタ マディミック ビィダラヤ」高等学校修繕費(校舎修理、トイレ設置、科学実験用器具等)¥400,000備品(机と椅子)¥100,000などや新築の学校「スリ ジャナヒット パンチャ イサカ」小学校 建設費(校舎)¥1,400,000 備品(机と椅子、トイレ)¥320,000などを支援してきました。今後も、ネパールの子供達に対して、教育の機会を与え、民族にとらわれることなく、その人らしく生きていくための様々な教育支援に関する事業を行い、ネパールの平和に寄与する事を目標に支援を続けてゆきます。(完)

    ネパールの教育支援先 郵便口座:「チェトナサンデス会」口座番号:00140-8-669426 連絡先はP.S.MUSICと同様
    【CDの申し込み】 有限会社P.S.MUSIC 東京都世田谷区船橋1-12-10-203 TEL/FAX 03-3425-3469 E-mail:pancha@big.or.jp FAX かメールでお願いします。
    【写真】小学校の子供たち 撮影:パンチャ・ラマ


ユーラシア短信 ルーマニアで第三国定住を待つウズベク難民 国連難民高等弁務官事務所

    UNHCR国連難民高等弁務官事務所ルーマニア(7日)発:

    2005年夏より、ルーマニアの一時滞在所で、数百人のウズベク難民が生活している。2005年5月12日にアンディジャンで暴動が起こり、混乱の中、438人が近隣国キルギスタンに逃れ、2か月間滞在した後、さらにルーマニアに避難した。ウズベキスタン政府はキリギスタン政府に対し、難民を引き渡すよう強力に圧力をかけていたため、これらの難民の第三国定住が決定した。アメリカ、カナダ、オーストラリア、ヨーロッパ諸国が第三国定住先として名乗り出ており、ルーマニアは手続きが終わるまでの間、ティミソアラに一時滞在所を提供している。

    ウズベキスタン文化において、地域社会はとても重要なものである。キャンプを去る人がいる時には、真夜中であっても、気温が氷点下であっても必ず全員で見送りをする。キャンプ内の生活においては役割分担がはっきりしており、人々は規律立った生活をしている。

    ルーマニア滞在者の生活は上向きである一方で、キルギスタンで拘禁されている4人のウズベク難民の状況が懸念されている。2月はじめ、UNHCRはキルギスタン政府に対し、難民をウズベキスタンへ強制送還しないよう申し入れた。
    【写真】ルーマニアの一時滞在所で食事の準備をするウズベク難民女性(個人情報保護のためにモザイクを使用) ? UNHCR/M.Sunjic


燕京通信 大興安嶺紀行 その3 河と森   井出晃憲

    漠河で一夜明け、出立の前にもういちど黒龍江を臨む。60年前の探検隊の一人はこの河での船旅で印象深いエピソードを記していた。船に乗務する少年のボーイが隊員の一人と懇意になり、次の寄港地に"いいもの"があるからぜひご覧になりなさいと勧める。隊員が上陸して林を分け入っていくと、空き地に誇らしげにそそり立つ円錐形の姿を見つけた。

    赤蟻の大きな山形の巣だった。すでに数人の日本人がそれを取り囲んでおり、面白半分に火をつけて燃やし、手に手に枝を取ってかきまわしたため、ついにみごとな巣は無残に破壊されてしまった。船が再び出港した後、ボーイは怒りに燃えた顔で「あんたがこわしたんだろう」と声をふるわせて詰め寄り、隊員はこのときはじめて、彼の"いいもの"が何であったのか悟ったという。

    信頼を裏切られたボーイは以後、隊員に口を聞くことはなかった。『一度うえつけられた「日本人」への不信の念は、年とともに成長するであろう。われわれの「こどもっぽい」いたずらの結果は、そのような民族間の心の傷をつくるきっかけとなりはしないだろうか。』と隊員は述懐する。ささいなエピソードではある。けれども、かつての大陸での日本人の行為の一側面を象徴するものではないだろうか。そのボーイは今も健在なのだろうか。

    黒龍江に別れを告げ、もと来た道を南下して列車を降りた漠河県という中心地まで戻った。かつての4戸の小集落はいま人口数万におよぶ林業都市だ。ここでは火災紀念館を訪ねた。1987年5月6日に人為的なミスで北部大興安嶺一帯は大規模森林火災に見舞われ、45日間延焼して中国側で120万haが焼失し、200人以上の死者が出た。今まで知らなかったのだが、それで火器の管理と入山が厳重に管理されているわけか。それなら各所で焚き火をしながら踏破したかつての探検隊と違って、いま一旅行者が渓流釣りを目的に勝手に森に入ることができないのも無理はない。

    回復には長期間を要するから大切に森を育てているのだ。後で調べてみると、ソ連側のほうが被害が甚大で360~600万haが焼失し、合わせると世界の針葉樹の1割以上が失われたとのこと。けれども紀念館では、ソ連側の被害の展示はあったのかもしれないが気がつかなかった。最近の松下江からアムール河下流にかけての汚染問題も頭をよぎる。こと国境をまたぐ環境破壊への対応の難しさを感じる。自然という"いいもの"を守るためには、"線"などを設けてはいけないのだ。

    さて、漠河県からいよいよ、かつての探検隊が北部大興安嶺を踏破したルートを逆に南下する。しかし今では探検なんてものではない。本隊の通過ルートはほぼ道路と鉄路でつながれているからだ。今日は漠河県からマンクイ鎮という町まで。1日1本の午後1時に発つマイクロバスは120km余りの道のりを3時間半ほどで結ぶ。未舗装とはいえしっかりした道をバスは砂埃を巻上げながら飛ばしていく。ロチョウコウという川筋だ。周囲は鬱蒼としたマツやシラカバの森林で、ところどころ林業基地に止まっていく。「戸外での一服、即公職追放」なんて標語が目に付く。心しなければ。

    遠くには低い山並みが続いている。山嶺とはいっても目立つ高い嶺はない。分水嶺を越える辺りは、かつて探検隊が基地を設けた場所のはずだ。今は黒龍江省と内モンゴル自治区の境界の検問所がある。そこで小休止して出発すると、南に開けて日差しがよくなったせいか、なんとなく明るい雰囲気を感じる。

    道は下り坂となり、今度はニジネ・ウルギーチという川に沿ってますます快調に進む。かつての探検隊のメンバー達は心を躍らせながらこの辺りの道なき道を歩いて行ったのだろうか、などと感慨にふけっているうち、森林が切れ忽然と町が現われた。もう終点のマンクイ鎮だ。あっけない。探検隊は10日の行程でこのルートをたどったのに。
    【写真】分水嶺の黒龍江省と内モンゴル自治区の境界検問所 撮影:井出晃憲


アムール河のニトロベンゼン汚染による民族の危機をどう乗り切るか

先住民族ナナイの村・シカチアリャン住民の声 ビクトリア・ドンカン 翻訳:大野 遼

    「アムール川の環境汚染によって、村の先住民の雇用問題が引き起こされました。川の水は、有毒な化合物に汚染され、魚を獲ることも、食べることもできなくなってしまった。こんな状態で、どうやって生きていけるのか、家族を養っていくために、何をしたらよいのか。この問題について私は、シカチアリャンの住民に聞いてみました。」(シカチアリャン在住:ビクトリア・ドンカン)

    パッサール・アレクサンドル 無職 子ども2人 28歳
    「かつては魚を獲り、売って、家族を養うことができた。妻は保育所で働き、最低生活費の半分ほどを稼いでいる。現在、最低生活費は、一人当たり平均4,280ルーブルだ。仕事を見つけなくてはならない。給与は、生活維持できる状態ではない。村には仕事がない。家に居て、日本人が援助してくれるのを待つのは、恥ずかしいだけだ。村には仕事が必要だ」

    スースロフ・セルゲイ・アルテミェビッチ 漁師 建築技術者 46歳
    「魚を獲ってはいけない。健康が第一だから。人がまともに生きていくには、仕事が必要だ。収入がなくなったら、家族を養えなくなる」

    スースロフ・セルゲイ・イグナトビッチ 漁師
    「漁労はしない。しかし、人によっては魚を獲り続け、食べるだろう。なぜならそれが、この村の暮らしだし、魚がなくては生きていけないからだ。別の仕事を探さないといけないと思う。今、伝統的木工技術を学んでいる。観光客へのお土産として売りたい」

    アクタンカ・ウラジーミル・ウラジーミロビッチ 漁師46歳
    「村に仕事はない。生活保護で暮らしているが、生活費はいつも足りない。魚を獲っても、売らない。現状では、誰も買ってくれない。一箇所に留まっていない魚を獲る。そんな魚はいい。煮たり、焼いたり、ハンバーグにする。とにかく、何か食わなくては生きられない。仕事があれば、もちろん仕事をしたい」

    アクタンカ・ウラジーミル・ニコラエビッチ 年金生活者 身障者(2度) 40歳
    「かつては漁民から、安く魚を買い上げた。都会に出かけて、市場で売った。これで食料、衣服、テレビさえ買っていた。年金は足りない。妻は無職。仕事はどこにもない。今、妻と一緒に教室に通い、木工、白樺の網細工を学んでいる。お土産品作りを学び、夏には観光客に売って、パンを買えるようにしたい」

    オネンコ・スベトラーナ・ドゥミトリエブナ 年金生活者 守衛 65歳
    「昔は町に出かけ、魚を売った。息子はほとんど毎日、魚を獲っていた。年金はわずかで、最低の生活費にも足りない。私は孫を愛している。誕生日にはプレゼントをあげたいが、お金が足りない。きれいなナナイの上靴を縫って、夏には観光客に売ります」

    ペルメンコ・タチヤナ・ボリソーブナ 女性漁師 43歳
    「いつも魚を獲っていた。魚がなくては生きていけない。だから今も魚を獲って、食事を作っています。仕事さえあれば、仕事をしたい。支援はありがたいが」

    キレ・エレーナ・アレクサンドローブナ 教諭 装飾工芸教室を運営 56歳
    「白樺加工、ツルやザルヤナギの根を使った網細工を、無料で教えている。こうした知識が、暮らしを支える仕事になると思う。村民が仕事をして収入を得られるお土産の製作工房を、開設できたらいい」

    チピズボーヴァ・リュボービ・ゲンナジェブナ 看護士 子ども3人 36歳
    「収入の良い仕事があれば、今、村民は魚を獲って食べるなんてことはしない。でもきっと、誰かが魚を獲って食べ、そして悔やむことになる。病気になるのは、わかっているのに」

    ニコラエヴァ・アーシャ・セメノーブナ 教諭 40歳
    「みんなで、環境汚染についての日本の提案について、話し合いました。そして決意しました。仕事場を開設することが良い。村民が自分で稼ぎ、決して、ぼやっと座って、誰かが養ってくれるのを待つということをしてはいけない。村の全ての家屋は古くて、ほとんど壊れそうだ。それでも仕事のない大工がいる。家族を残してどこかに行くなんて、できない。特に冬は、大変つらい家事がある。蒔割り、水汲みとか。作業班が組織されて、新しい家を建てることができればいい。頻繁に外国の観光客がやってくるのに、村は老朽化したままだ」

    ドゥルジニーナ・ニーナ・イグナチェブナ 村長
    「役場は、上水、文化遺産の保護、観光、お土産品の加工などを運営する村営の企業をつくります。これまで、魚を獲ることしか知らなかった貧しい村民に、仕事を確保するため努力したい。シカチアリャンの文化遺産ペトログリフ(岩絵)を保存するための、仕事場を開設することを考えています」

    アジャール・リマ・デニソーブナ 協同組合<ナニ>代表 子ども8人 50歳
    「協同組合は、これまで魚を獲って塩漬けにしたり、イクラを加工したりしてきた。これからは、新しい収入源になる仕事を探そうと思っています。薪作りのための仕事を、検討し始めました」
    【写真】ペトログリフのひとつ 撮影:河野真一


漁労に生きる先住民族の村 シカチアリャン 大野 遼

    シカチアリャン村はハバロフスク地方ハバロフスク地区にあり、ハバロフスク市から80キロメートルの所に位置している。この村は民族村で、325人の住民のうち90%はナナイ人(アムール流域で人口1万1千人)、残り10%がロシア人、ウクライナ人、タタール人です。

    オホーツク海の流氷は、凍結したアムール河から発し、北海道や朝鮮半島に達したものであることは有名ですが、日本列島の人や文化の起源も、アムール流域から上流のバイカル湖に淵源をたどれるものであるとの「バイカル起源論」も注目される学説として認められており、ナナイは日本人と文化にかかわり深い先住少数民族の一つです。

    言語も日本語によく似ています。村の子供たちが歌うフレーズでは、アムールの魚が、"尾をフルフル"して、"餌をパクパククウ"などの日本語と同じ擬態表現も見られます。アムール河上流の中国の少数民族ホジェンはもともと同一の民族で、1860年の北京条約でウスリー川を東西の境として中ロの国境が確定されたために民族分断され今日に至っています。

    ハバロフスクの都市拡大、ロシア人の居住区の拡大に伴って、先住民族の生活範囲も狭められ、もともとの産業基盤であったアムール河も漁労件を狭められる形で、年々先住民族の命運が細くなっています。これまでも漁獲高の減少は死活問題になっており、中国石油化学工場のニトロベンゼン流出はこうした状況に追い討ちをかけた形です。

    村にはアムール河の岸辺に沿って、紀元前1万3千年に遡る古代の住居址、百数十点に上るペトログリフと呼ばれる古代の遺跡、岩絵が存在し、日本の縄文文化とのかかわりも指摘されています。

    村はアムール河右岸に位置し、周囲を島や入り組んだ支流に囲まれており、地勢は丘陵が多い。気候はモンスーン型気候で、雨の多い暑い夏と、寒くて雪の少ない冬が特徴で、夏の最高気温は32℃、冬の最低気温は-36℃に達すします。村は混合林に囲まれており、カラマツなどの針葉樹が群生しており、多くの価値ある樹種に恵まれ、森にはイチゴ、キノコ、薬草などが生育しています。

    村には産業といえるものはなく、第一の生業は漁業、そして狩猟、イチゴやキノコの採取などで生計をたてています。その他民族工芸品、伝統的民族服や靴などの土産品をつくっています。現在村には昨年完成した新しい小学校、幼稚園、文化会館、のほか雑貨店は一つだけあります。

    ユーラシアンクラブは、シカチアリャン村で、ナナイの伝統的装飾を生かした縫製産業育成のため協力を続け、村のクラブキャンプの一棟を縫製工場に改築改修し、日本から送られたミシン、布地を利用した小物生産が始まっています。数年前、現在の村長を初め、村の3人の女性が富山県の東林勉さんが経営するミシン工場に研修のため招かれ、また4人の専門家が村に派遣され、製品がクラブや協力ボランティア団体を通して日本で頒布、村人に還元する活動も数年続けられました。姉妹村のパートナー自治体を探しています。

    キャンプは大野が資金を提供し、村民77人に分筆して所有。ユーラシアンクラブが補修費用の一部を協力、村のユーラシアンクラブ会員が運営しています。キャンプは1.5ha。建物は老朽化しており、村人が無償で補修しながら活用しています。これまで極東少数民族の芸能交流の拠点となるなど活用されています。敷地内ではテント設営やバーベキューを楽しむなど交流スペースを広くとれます。

    村民は、このキャンプを観光収入や村の自立のための活路の一つとして期待しており、村民がナナイの伝統的半地下式住居復元を検討しているほか、20万円程度で完成する4メートル四方の山小屋のドナーを募っています。

    【シカチャリアン生活維持と自立支援(仮称)募金】送付先
    郵便口座名:ユーラシアンクラブ 口座番号:00190-7-87777 通信欄にシカチャリアン支援と明記してご送付下さい。
    皆さまのご理解とご支援をお願い申し上げます。
    【写真】上:1月厳寒のシカチアリャン村 下:村のおばちゃんと抱き合う大野さん 撮影:河野真一


編集後記:新春交歓会にはお忙しいところをありがとうございました。お礼申し上げます。/今号は増頁し、村の人たちが何を考え、何を望んでいるかをビクトリア・ドンカンさんにリポートしてもらいました。自立できる仕事をどう創るかとともに、今日、明日の食糧をどう確保するかも現実の問題として迫ってきています。(高橋)


発行:特定非営利活動法人ユーラシアンクラブ 発行人:大野遼住所:〒151-0053東京都渋谷区代々木2-13-2 第一広田ビルTEL/FAX:03-5371-5548 E-MAIL:paf02266@nifty.ne.jpホームペイジ:http://homepege1.nifty.com/EURASIANCLUB/郵便振替:00190-7-87777ユーラシアンクラブ 
会費、ご寄付はこちらへお願い致します。ご連絡はメールかファックスを希望します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年1月 | トップページ | 2006年4月 »