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2006年11月

2006年11月29日 (水)

ニュースレター第88号2006年12月1日 サハ共和国を中心にした鼓童シベリアツアーが成功 「国民栄誉賞」を受賞

ユーラシアンクラブニュースレター第88号2006年12月1日


サハ共和国を中心にした鼓童シベリアツアーが成功 「国民栄誉賞」を受賞 大野 遼

    私は11月上旬、既に深夜には-30度を記録していたシベリアのサハ共和国を訪問しました。昨年3月、英雄叙事詩オロンホを題材にした音楽劇「キース・デビリエ」の日本版総合プロデュースをし、またこの10年ほど、現在同国対外経済産業省の副大臣(当時在日サハ共和国代表部代表)の紹介で、ハトラエフ夫妻を日本に招聘してから、ほぼ毎年のようにシベリアの本物のアーチストを通してサハを紹介する活動の中で、サハ共和国文化大臣アンドレイ・ボリソフ氏と懇意になりました。

    そしてこの間、ハトラエフ夫妻の希望を実現する形で、佐渡の鼓童文化村を訪問したのが契機になって、鼓童の菅野敦司、金子竜太郎両氏がヤクーツクを訪問。また翌年ユーラシアンクラブと鼓童の協力で、サハ共和国の太鼓職人、ヤクートの若手太鼓アーチストとハトラエフ夫妻を日本に招聘して佐渡で交流が行われました。今年夏には、鼓童の夏の音楽フェスティバルアースセレブレーションにハトラエフ夫妻が参加し、6月のシカチアリャン村のためのチャリティ・コンサートに参加してくれた篠笛の山口基文氏、太鼓の金子竜太郎氏と共演を果たし注目されました。

    こうした経緯を経て、鼓童が国際交流基金のサポートを得て、サハ共和国の首都ヤクーツクでの公演を中心とした鼓童シベリアツアーが実現することになりました。私は、ヤクーツク公演のコーディネーターとして先乗りの形で、厳寒の地での楽器の受け入れ、記者会見やテレビの生放送、リハーサルの段取りを準備し、サハ側の太鼓を中心とした演奏グループ「テティム」の制作協力者として活動しました。

    サハ共和国の受け入れはアンドレイ・ボリソフ大臣の指示を得て、全面的に文化省と国立劇場サハ劇場スタッフが協力してくれたおかげで、私や鼓童の注文は全面的に遂行され、二日間の公演は大成功で、400席の客席は4日間で2公演とも完売。強い要望で通路に椅子を出したり、立ち見の客も受け入れて500人の超満員となりました。聴衆の反応は大変よく、山口さんの日本文化紹介も好評で、最後は2日間ともスタンディングオベーションで終わりました。

    私は、文化大臣との懇談や公演初日の舞台挨拶でも話しましたが、シベリア・サハ共和国には、英雄叙事詩オロンホだけでなくアジアのトルコ系騎馬民族の精神文化、シベリアの先住民族ユカギールやエベンキの文化などさまざまな民族文化が残っており、日本と同様、吹き溜まり的文化状況に共通性があり、日本とサハ共和国との文化交流は、アジアの歴史的精神的文化遺産の交流という性格も持っている。太鼓の種類が豊富なことも日本とサハ共和国の共通性である事を指摘しました。

    ボリソフ文化大臣は、サハの若い太鼓演奏者を鼓童の研修所で研修させてもらう希望を語り、また日本の国立劇場での研修も希望しました。

    サハ共和国は今回の訪問に際して、私にサハ共和国大統領名による国民栄誉賞を授与しました。サハと日本との文化交流への貢献ということでしたが、最も大きな要素は、昨年の「キース・デビリエ」日本公演が評価され、ロシア連邦政府から英雄叙事詩オロンホのための国立劇場建設が認められたことであると伺った。受賞は、アンドレイ・ボリソフ文化大臣の今後への強い期待も込められていると受け止めています。

    これまで私を支えていただいたユーラシアンクラブの仲間や友人の皆さん及びユーラシアンクラブの活動への名誉ある受賞だと考えています。改めてお礼を申し上げるとともに、今後ともご支持をいただくようお願いします。
    【写真】上:ヤクーチア紙、鼓童コンサートの紹介と筆者へのインタビウ記事 下:サハ共和国国民栄誉賞メダル


国家・民族・宗教を超えて ユーラシアンクラブのご案内 年末にあたり会費などお力添えを

    日頃のご理解お力添えに厚くお礼申し上げます。活動の輪を広げるため、お知りあいの方々にユーラシアンクラブのご紹介をお願い頂ければ幸です。
    また、冬のボーナス時期にもあたりますので会費などのご送金もよろしくお願い申し上げます。

    目的など:ユーラシアンクラブは国家、民族、宗教の境を超えて理解、親睦、協力を広げることを願い、『顔が浮かんで、声が聞こえる』人間のつきあいと、少数民族にウェイトをおいた交流の拡大を図ることを目的としています。各種講座、現地旅行、文化芸術交流などを通して、ユーラシアの人々との協力関係を築いてきました。

    設立年:1993年設立 2001年から特定非営利活動法人 
    代表者:名誉会長=加藤 九祚(国立民族学博物館名誉教授 ロシア科学アカデミー名誉歴史学博士)
    理事長:大野 遼(元通信社記者 北方ユーラシア学会事務局長)
    会 員:趣旨に御賛同頂ければどなたでも御入会頂けます。ニュースレター及び各種催し物のご案内をお送り致します。
    年会費:一口6,000円以上。
    送金先:郵便振替00190-7-87777ユーラシアンクラブ
    ロシア・ハバロフスク近郊のシカチアリャン村への自立支援カンパも引き続き行っています。送金先は会費と同じ口座へお願いいたします。
    皆さまのご理解とご支援を重ねてお願い申し上げます。


エネルギー革命の時代に希望を~「ユーラシア大地の学校」開設に向けて 第三十回

カナダ・プリンスエドワード島の風力水素村紹介 報告者:若林一平

    最近、北海道大学名誉教授で水素社会をめざす魔法の発明で著名な市川勝さんから水素村(ハイドロジェンビィレッジ)の構想について話を聞く機会があった。水素村は水素エネルギー社会を先取りした未来型の実験サイトである。水素村構想は世界各地で進んでいる。今回は、カナダの水素村の事例をプリンスエドワード島政府のサイト(http:// www.gov.pe.ca/)から紹介する。

    プリンスエドワード島は、カナダ東部海岸にあり、人口は138,000人、面積は5,600平方キロメートル。佐渡島と比較すると,人口で2倍、面積は7倍ほどの規模の島である。カナダ本土とは橋でつながっている。これまでこの島で進められてきた風力発電と連携した「風力水素村」構想が始まった。

    2006年9月18日記者発表。カナダ第二の燃料電池会社であるハイドロジェニック社とプリンスエドワード島(PEI)エネルギー公社とはプリンスエドワード島・風力水素村事業に使用する機器の入札の開始を発表した。ハイドロジェニック社とPEIエネルギー公社は、既に2005年4月、カナダ初の風力水素村実験事業を推進するために、産業と政府とのコンソーシアム(共同事業体)を立ち上げている。

    1,030万ドルの事業によって、風力発電の電気エネルギーの力で水を電気分解して水素を作り出して、これを備蓄して燃料電池の発電燃料とするのである。風力発電はいわば一過性のエネルギー源であったのが、水素を電気の「運び屋」として風力発電のエネルギー供給を安定的かつ定常的なものにしてゆく野心的な事業である。

    備蓄された水素は燃料電池によって酸素と化合して水となり、同時に電気と熱を発生する。よく知られているように、燃料電池から発生する化学物質は水のみであり、地球環境にとって全く無害なクリーンなエネルギーシステムなのだ。

    プリンスエドワード島の大西洋風力テストサイト(AWTS)はカナダ唯一の国家テスト基地であり、島の電力の5%強がノース岬 の風力発電サイトから供給されている。島のエネルギーの5%以上が「グリーン」というわけだ。ノース岬は同時に風力水素村事業のサ イトでもある。

    ハイドロジェニックス社は今回の事業開始に先立ち、スチュアートエネルギー社を買収している。この企業は水の電気分解により水素を生成するための独自の装置技術を有している。スチュアート社は水素を圧縮 貯蔵する技術も有している。ちなみに北大の市川さんの発明は水素を高圧を使わず常圧で濃縮できるさらに進んだものである。

    プリンスエドワード島では三年後には水素シャトルバスを、さらに水素船の運行も計画している。
    【写真】プリンスエドワード島風力水素村全景(http:// www.treehugger.com/より)


樺太紀行 第3回 置き去り 若林 一平

    2005年9月の樺太訪問。ロシア領ユジノサハリンスク で、機会を得て、サハリン韓人会幹部の方との出会いが実現した。林氏。昭和9年生まれ、炭坑夫として朝鮮南部の太田から樺太の炭坑に連行された父を追って、樺太へ。当時の樺太庁が朝鮮人の家族を呼 ばせたのは、帝国政府の定住化政策の一環である。林氏は樺太の国民学校の3年まで「日本国民」としての教育を受ける。

    昭和20年8月9日、ソ連軍の侵入が始まった。しかし、このとき既に林氏の父親は樺太にはいなかった。なぜか。戦況悪化により樺太からの石炭の運搬は困難になり樺太の炭坑は操業縮小、当初樺太の炭坑に連れてこられた人たちは、内地の炭坑に再び連れてゆかれる。当初の会社募集は戦争末期には有無を言わさぬ徴用へと変わっていたのである。朝鮮から樺太へ、そして樺太から内地へ。サハリン在住の韓国人の人たちはこれを二重徴用と呼んでいる。

    家族が分断されたまま日本の敗戦を迎える。ソ連の統治が始まり、日 本人の引き揚げが始まった。しかし、引き揚げ船に向かうバスに一旦は 乗った後で中途で降ろされたときの悔しさを林氏は語ってくれた。「必ず迎えに来るよ」という日本人の言葉を林少年は信じて待ち続けたのだが。60年間誰も来てくれなかったのだ。

    ここで歴史を想起しておこう。1945年8月8日、ソ 連は日ソ中立条約を破棄して満州そして南樺太、千島列島を占領した。 同年9月2日、日本はミズーリ号甲板にて降伏文書に調印して戦争は終結した。日本の敗戦によりあらゆる植民地特権を失った日本人達の本土への帰還が一斉に始まるのだ。樺太も例外ではない。

    1949年7月、「日本国民」29万人の樺太からの引き揚げがほぼ完了する。他方では大日本帝国の崩壊により「日本国民」が全く恣意的に再定義された結果、強制連行などにより樺太に移住させられた4万人の朝鮮人たちが当事者の意志とは関係なくソ連領サ ハリンに置き去りにされたのである。

    置き去りにされた朝鮮人たちの多くは朝鮮半島南部の出身者であっ た。南部では米軍主導下で反共国家大韓民国が1948年に建国され、戦後の冷戦下では共産国ソ連とは厳しい対立関係にあったのである。1983年にはソ連空軍による大韓航空機撃墜事件も起きている。結果、サハリンの朝鮮人たちにとって故郷への移住・帰郷はおろか 朝鮮半島に残された妻や、親兄弟との面会自体もかなわぬ夢になってしまった。

    さらに、ソ連統治下で彼らを不利な境遇におく決定的事情が あった。皮肉なことに、その事情とはサハリンに置き去りにされた朝鮮人たちが「日本国民」であったことである。日本語を話すだけでスパイ扱い、そして密告の恐怖の日々はゴルバチョフのペレストロイカの時代まで続いたという。

    林さんには日本人への様々な思いがあるはずなのだが。惜しみなく元気の素を与えてくれた。置き去りを超えて樺太の大自然を生きてきた林さんの生命力には感嘆を禁じ得なかった。
    【写真】樺太をたつ日の朝、林さんからいただいた体長30センチ はある自家製のイワナの薫製(2005年9月、筆者撮影)


チンギス・ハーン即位八百年のモンゴルにて(2) M. エルデニバートル(大正大学非常勤講師)

    2006年8月8日(火)、晴。この日の午前中、国際モンゴル学会(IAMS) 第9回国際モンゴル学者会議の開会式がウランバートル市内の政府庁舎で行なわれた。例年と比べると、20余りの国と地域からの出席者が400人を超え、盛大な国際会議となった。モンゴル建国800周年を記念する'THE 800th ANNIVERSARY OF GREAT MONGOLIAN STATE'という英文の横断幕は、会場ではもとより、機内、空港や町の主要な場所でも掲げられていた。

    午後からは、会場をモンゴル国立大学に移し、五つの部会に分けて通常の研究発表と質疑応答が行なわれたが、学会の主な使用言語はモンゴル語、英語とロシア語だった。夕方にはイフ・テンゲル宮殿の敷地内にてN. エンフバヤル大統領のレゼプションと野外ミニコンサートがあった。

    8月9日(水)、晴。この日の午後、筆者は、モンゴル国立大学の「文化と芸術」という第4部会において、'A Study on the Ritual Scripture of the Holy Chinggis Khagan'(「聖チンギス・ハーン祭祀経」に関する一考察)という研究発表を行なった(写真2)。これが今回のモンゴル訪問の主な目的だったので、その日は発表を終えてほっとした。

    8月9日から12日の閉会までは毎日通常の研究発表と質疑応答が行なわれたが、この間、筆者に印象深かったのは学会の内容ではなく、むしろ次のような出来事だった。

    その一つが8月9日の夕方、10歳くらいの2人の子供との出会いである。その日の夕方、私は、何人かの知人と一緒に「ハーン・ボロイ」というレストランで夕食をし、モンゴルとドイツが共同で作ったとされる生ビールも飲んだ。そして、食事を終えてレストランを出てきたところ、その玄関の前で、小さい紙箱を手に持った2人の男の子に「お兄ちゃん、ガム買ってくれ、パンを買うお金がないの」と引き止められた。

    こちらは考える余裕も無かったので躊躇もせずにガム二個ずつ買って、子供に言われたままの値段でそれぞれ500トゥグルグ(日本円にして約50円)を払った。そうしたら、2人の子供は何故かすんなりと去って行った。そこで、私にはよく分からないことがあった。それはレストランから私が数人の知人と一緒に出てきたのに、その子たちが何故他の人には「おねだり」をしないだろうか。

    ターゲットは海外からの旅行者のみということだろうか。それとも現地の大人たちには、このような子供たちをまともに相手にする人が殆どいないからだろうか。無論、私がその2人の子供からガムを買って、ほんの少しのお金を払ったことだけで何の問題も解決できないということは十分承知している。しかし、いずれにしても、モンゴルには、このような子供たちが他にも大勢いるという厳しい現実を考えると、心を痛めずには居られない。

    8月10日の午後、ウランバートル市内でタクシーに乗って渋滞に遭った。その時のタクシー運転手との会話が忘れられない。運転手の話によると、最近のウランバートルは車の数がどんどん増えているのに、道路が整備されてないためよく渋滞する。しかし、この日の渋滞は特別で、いくら時間がかかっても我慢できるし、それは、この日の渋滞は日本の小泉首相(当時)のモンゴル訪問によるもので、主要道路が一時通行止めになっているからだという。

    そこで、筆者は、なぜこの日の渋滞が「特別」で「我慢」できるのかを尋ねてみたが、それは日本がモンゴルに対する最大の支援国だからという。さらに、モンゴルが日本に「お礼」をすることができるのは「地下資源」があるからだとタクシー運転手は言う。これはどこの国にもよくある渋滞の話から自然に引き出された重要なメッセージかも知れない。

    確かに、筆者が日本に戻ってから日本・モンゴル経済協力関連の記事を日本の新聞で確認することができた。それによると、日本の政府開発援助(ODA)は2005年までに約1884億円に達し、2国間に限れば対モンゴル支援全体の3分の2を占めているが、一方、日本にとってのモンゴルは豊富な地下資源をめぐる経済協力など注目すべき点が多く、モンゴル南部の「タバントルゴイ石炭鉱区」に埋蔵されている原料炭は、日本で使用する石炭の約30年分にあたる51億トンともされるという(2006年8月11日読売新聞)。(以下次号)


日本口琴協会2006年の活動 国際編(1) 直川礼緒

    7月28日から3日間、オランダのアムステルダムで、第5回国際口琴大会が開催された。この国際的な口琴の催しは、1984年にアメリカのアイオワで第1回が開かれたのを初めとし、続いて7年後の1991年にロシアのサハ共和国(当時はソ連のヤクート-サハ共和国)で第2回、1998年にオーストリアで第3回、ここから4年間隔で、2002年にノルウェーで第4回、と開かれてきている。

    今大会では、少なくとも23ヵ国から、100名以上の参加者を迎えていた。欧米各地の口琴の演奏者、研究者、製作者たち。大会の常連である、サハ、アルタイ、バシコルトスタン、キルギス、カザフスタンなどの口琴奏者たち。加えて、今回の催しの大きな特徴として、インド、インドネシア、中国、南アフリカといった、これまで参加のみられなかったアジア・アフリカの国々からの非常にユニークで特徴的な口琴の伝統の保持者たちが新たに加わったのがうれしかった。これは、今大会の主催者となった、アムステルダムの駅の裏手に新しく建設された、総合音楽施設「ムジーク ヘバウ アーン エット アイ(アイ川の音楽党)」の実行委員たちの努力の賜物である。【写真は、サハ共和国の代表団】

    日本口琴協会としては、第2回以降毎回、アイヌ民族のムックリ奏者数名とともに参加してきている。今年は、阿寒・屈斜路・釧路の4名が参加、「揺籃」と題された最初の大きなコンサートで、中国とインドネシアの演奏者とともにステージを勤めた。

    筆者は、国際口琴協会のプログラム委員会の一員として、実行委員会に協力するほか、口琴奏者として、2日目夜の「東西の遭遇」コンサートで、ウズベキスタンの作曲家アルチョーム・キムによって大会のために書き下ろされた新作「エアー・ミュージック」を、アムステルダムの4名のパーカッション・アンサンブルと世界初演する、という機会を与えられたのは非常に有意義であった。(以下次号)


キルギスへの誘(いざな)い 写真で見る中央アジアのオアシス08

    温泉の楽しみ
    キジルス渓谷に小さな温泉場があった。この渓谷の管理人は若き遊牧民の主人。温泉では石けんを使わないで、とのこと。なるほど。ここでは自然との付き合いがワンランク上なのだ。
    (写真:キルギス共和国キジルス渓谷で 1998年、若林一平撮影)


ユーラシア短信 町家の観光見習おう 西陣で キルギス・タジク研修団 京都新聞が紹介

    伝統産業や町家文化を生かした観光を西陣地域に学ぼうと、キルギス共和国とタジキスタンの研修団が2日、京都市上京区の「西陣の町家・古武」や織成舘を訪れた。訪れたのは、両国の政府関係者や旅行会社社長ら10人。山梨県では高原型観光を、奈良県では観光ガイドのあり方を学び、エコツーリズムの視察地として西陣を選んだ。

    研修団は、現地の人との交流を大切にしながら徒歩で観光するエコツアーの面白さについて講義を受けたあと、手織り工房や町家を見て歩き、自国の観光開発に生かせる点を探した。(京都新聞11月2日)


ナナイの村・シカチアリャンの歴史と文化、そして暮らし04 大野 遼

    世界樹と太陽
    前回の原稿の最後に、日本の神社が「杜さん」と親しまれ、神木こそが重要な精神文化的要素であると書いた。今月上旬、鼓童とともにヤクーツクを訪れ、シベリアで、日本とアジアの古代精神文化について考えた。それは太陽に伴うものである。実は、キース・デビリエのプロデュースの際に、私は文化大臣に、古事記と日本神話の研究書を贈呈し、太陽をテーマとする精神文化企画を「太陽プロジェクト」として提案した。

    人類は、そしてアジアの諸民族の間では、太古の昔から太陽を大変重要な存在として受け入れてきた。日本の国旗に赤い太陽が取り入れられ、サハ共和国に白い太陽が描かれているのもこうした精神文化の歴史を示している。天界の太陽神から地上に追放された「キースデビリエ」が、地下の魔物が人間をそそのかして乱した地上に平和をもたらすために立ち上がるという英雄叙事詩オロンホのモチーフが、日本神話のアマテラスとスサノオとの関係を髣髴させるだけでなく、天界地上界地下界という三界の世界観は、広くアジアを覆う、人間の素朴で原初的世界観となっている。

    この世界観では、降り注ぐ太陽の恵みを日々の暮らしで実感として感じるとともに、土に帰る全ての生きとし生ける命の潜む大地の下に畏敬の気持ちを抱いてきた。地上に暮す命の源を、この天上の世界からいただくという観念はさまざまな形で表現され、抽象化されたり、具現化されて、人間の多様な文化の源になった。

    騎馬民族の子孫であるヤクート:オロンハイサハでは、馬をつなぐ木製の支柱セルゲがこの役割を務め、天上世界と地上をつなぐ表彰となった。ナナイの生命樹、世界樹、氏族樹と呼ばれる、子どもたちの魂が宿る樹も天上と地上、地下界を結ぶ。シャーマンが手にする白樺の小枝もこの生命樹の表彰で、シャーマンはこれによって生命樹を意識し、天界と地界を行き来して、地上の悪霊を退治する。

    この日本の神社の「神木」にもつながる観念は、アジアの森林の暮らしと結びついていると思う。これは既に環境考古学の研究で明らかなことだが、現在都市化されている平野のほとんどが、弥生時代以前は原生林に覆われていた時期が長い。人々はこの森で狩猟や食用植物の採取という天然の恵みに依存して暮していた。

    四季の変化を感じながらの日常は、森の中でも最も太く高い樹の根で豊猟を祈り、そして暮らしを支える神はこの樹の上に降りてきた。日本の神社で言われる神木や高木の神、生命樹やセルゲは、こうした表象と思われる。実際、マタギやアイヌ、そして私の友人であるウデゲの猟師は今でも、神木の観念を維持している。

    そしてこの神木たちの頂点に存在するのが太陽なのである。アンドレイ・ボリソフ文化大臣は、「大野の太陽プロジェクトをよく考えてみた。われわれはよく、私たちは白い太陽の子孫だと言うが、その割りには、真剣に太陽と暮らし、文化について考えていないと分かった。大変重要なテーマだ」と語った。

    日本では初日の出、初詣という習慣が残る。サハには、夏至の日に初日の出の習慣がある。6月21日に多くの人々が集まり、セルゲを建てて、白い太陽と出会う。文化大臣はこの時期にこないかと私を招いた。

    そして我がシカチアリャン村では三つの太陽の伝説と岩絵が密接に結びつき、岩絵に太陽のシンボルが刻まれている。(以下次号)
    【写真】世界樹(生命樹、氏族の樹)-「氏族の樹の下で」(E.D.サマーラ)から


編集後記:在日キルギス大使館のクタノフ大使とお話する機会がありました。最近の憲法改定を巡る大統領と議会との対立が日本で報じられ、心配の問い合わせを頂いたが、キルギルの治安は全く問題がありません。日本でも国会を取り巻くデモがよくあったでしょう。あれと同じですよ。ビザの要らないキルギスに是非お出で下さい。と笑顔で語っていました。(高橋)


発行:特定非営利活動法人ユーラシアンクラブ 発行人:大野遼住所:〒151-0053東京都渋谷区代々木2-13-2 第一広田ビルTEL:03-5371-5548 FAX:046-285-4895 E-MAIL:paf02266@nifty.ne.jpホームペイジ:http://homepege1.nifty.com/EURASIANCLUB/郵便振替:00190-7-87777ユーラシアンクラブ。会費、ご寄付はこちらへお願い致します。ご連絡はメールかファックスを希望します。

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