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2006年12月

2006年12月31日 (日)

ニュースレター第89号2007年1月1日 『夢』を取り戻せ、団塊の世代よ。『ツール・ド・シルクロード20年計画』と国際交流&環境調査

ユーラシアンクラブニュースレター第89号2007年1月1日


新年、明けましておめでとうございます。  大野 遼

    新年、明けましておめでとうございます。
    昨年は、アムール汚染に伴う緊急支援やチャリティ・コンサートの開催などシカチアリャン村の自立支援で一年の半ば以上を費やしました。

    また並行して、キルギス共和国大使館からの依頼でキルギス共和国イッシククル州のグランドデザインやエコカルチャーセンターの提案書をまとめたことがきっかけとなり、アジアの瞳エコカルチャーサマーキャンプ&フェスティバル実行委員会が起ちあがることとなり、今年8月開催に向けて、事務局の活動が本格的になってきました。参加者の募集、開催に必要なファンドレイズ、アジアの近未来社会と暮らしの実験場ともなる太陽パネル、水力、その他の自然エネルギー、リサイクル施設やバイオマス器具などの展示などの準備に取りかかっています。

    また昨年は、この10年ほどお付き合いすることになったロシア連邦サハ共和国のアーチストや国立劇場のスタッフとの交流が縁で、佐渡の 鼓童ヤクーツク公演のコーディネートに携わり、その折にサハ共和国国民栄誉賞をいただきました。

    この10年ほど開催してきたアジア・シルクロード音楽フェスティバルやミュージックキャラバンについては、今年は資金的な問題から東京での大型の音楽フェスティバルの開催を見送りましたが、6月13日に目黒区民ホールで、 鼓童の演出家で篠笛奏者・山口幹文さんの参加も含めモンゴル、ウイグル、イラン、ネパール、日本の友人であるアーチストの協力を得てチャリティ・コンサートの形で開催できました。

    全国的には、栃木県桐生市、愛知県岡崎市、東京・羽田の長照寺、町田のこども劇場などで私が企画制作する形で音楽を通したアジア理解の音楽コンサートを実施しました。

    特筆したいのは、宮崎県門川町の門川総合文化会館の取組です。日本民謡をアジアの音楽の一部としてとらえる日本民謡演奏者との交流や地元の文化アドベンチャークラブの子どもたちとの協力イベント、さまざまなアイヌ文化紹介企画など、この10年ほど地道なアジア理解のプログラムが続けられてきました。常にその中心にいたのが河野真一館長です。

    昨年は、私の行っている活動のすべてに渡って強い関心を頂き、強力な援助をいただきました。冬と夏の二回にわたるアムール川シカチアリャン村への訪問、8月にはネパールのバンスリ奏者パンチャラマさんを招聘しての文化普及プログラムの実施、12月16日にはアジア・シルクロード音楽フェスティバルを開催、事前に小学校2校でウイグルのアブライティ・モハメットニヤズさん(タンブル)、梅木秀徳さん(ホーミー)の普及プログラムを実施しました。

    アジアの時代が進行中とはいえ、時代の変化にふさわしいアジア理解、民族の共生・自然との共生にふさわしい取組が進行中とも思えません。こうした日本の現状の中で、宮崎県門川町の活動は、私自身がやってみたい、地域で可能な、充実したアジア理解と普及の活動になっています。

    今年は、下記の方向で活動を展開したいと考えています。皆様のご理解とご支援をお願いします。 ①音楽文化を通したアジア理解の促進のため、引き続き東京でのフェスティバル開催を目指すとともに、引き続き「そこに行けばアジアのアーチストと出逢える」拠点の確保を模索します。

    ②シカチアリャン村の自立支援のため、国内で「アムール川の先住民族シカチアリャンとナナイ-歴史と文化展」を開催、募金活動を続け、交流キャンプの起ちあげ、アムール漁民にふさわしい水産漁業、食生活改善につながる農業人材育成支援に取り組みます。

    ③「アジアの瞳エコカルチャーサマーキャンプ&フェスティバル」の成功のために全力を尽くします。このサマーキャンプ&フェスティバルに向けたエコカルチャーツアー(8月17日~24日)を実施するとともに、エコカルチャーツアーについては、今年から来年にかけてシカチアリャン村へ年間3回のエコカルチャーツアー、6月21日を挟んで、サハ共和国で行われる「フストゥレーチ・ソンツェ(太陽との出合い)ツアー」を含めて、年間5回のエコカルチャーツアーを企画実施することにします。

    ④ユーラシア大地のフォーラム・大地の学校は、一部エコカルチャーツアーも視野に入れながら、民族文化、バイオマス・エネルギーの理解と体験の試みとして企画します。「言語文化塾」も態勢を整えて実施したいと思います。
    新年にあたり、皆様のご健康とご多幸を祈念します。本年もどうぞよろしくお願いします。
    【写真】宮崎県門川町公演の出演者と関係者


ナナイの村・シカチアリャンの歴史と文化、そして暮らし05  大野 遼

    私は、ユーラシアンクラブを立ちあげる以前、長く北方ユーラシア学会(会長・故江上波夫)の理事・事務局長として活動していた時期が10数年にわたる。学会の中での私の役回りは、学術調査のプロデュースや北方アジアの学術文化の普及といったもので、研究費の確保や調査のコーディネート実務に長く携わり、一方で記者としてその成果を報道、企画連載記事として発信していた。

    アルタイ山脈の旧石器時代の洞窟(どうくつ)遺跡の調査やスキタイ・パジリク文化の古墳発掘、シベリアの人類学的調査(形質人類学、遺伝子人類学)、渤海遺跡の調査、沿海地方の狩猟民とまたぎの文化比較、さらには「アルタイ・シベリア歴史文明展」の企画実施、など日本とシベリア、中国の研究者との交流を組織していた。

    その中で、シカチアリャン遺跡は、A.P.オクラドニコフの報告(加藤九祚、加藤晋平飜訳)やその後輩研究者B.E.メドベージェフの語るところによって興味を持っていた。私自身がシカチアリャン遺跡の調査を組織したのは、ユーラシアンクラブを立ちあげた(1993年2月11日)年の8月であった。

    退職金を投入して確保したキャンプを拠点に、藤本強(東大)、加藤晋平(千葉大)、田村晃一(青山学院)-いずれも当時-を委員に、鶴丸俊明(札幌学院大学教授)を調査団長として、シカチアリャン、チェルトヴァ・プリョウサ、シェレメチェボの3個所のいずれもアムール川流域のペトログリフ(岩絵)を「極東古代絵画の調査」として実施した。

    日本では、古代絵画というと敦煌の仏教壁画や高松塚の古墳壁画など彩色の絵画が浮かぶが、私は、北海道の手宮洞穴やフゴッペ洞穴の壁画につながる北方ペトログリフの調査重要だと考えた。 

    ウラジオストクのE.シャフクーノフ先生が提供してくれた古代突厥文字に関する情報も大きな刺激の一つであった。それは、日本人も含めた満州・ツングース諸族と突厥との接触の問題で、広くアジアの交流を視野に入れることであった。さまざまな民族の精神文化、言語、人々の移動と交流。芒洋たる空間幻想は私の好むところであった。シカチアリャン遺跡を含め、極東の古代絵画の調査には、大きな期待を持った。(以下次号)
    【写真】アムール川流域の岩絵遺跡(地図上の黒点が遺跡)


エネルギー革命の時代に希望を~「ユーラシア大地の学校」開設に向けて 第三十一回

2007年:日立、携帯・パソコン向けに小型燃料電池を発売 報告者:若林一平

    日立製作所はメタノールを利用する小型燃料電池を2007年に発売すると発表した。この小型燃料電池を月産二千から三千個生産する体 制を構築した。パソコンや携帯電話向けの外付け電源や充電器としての利用を見込んでいる。(2006年12月13日、日本経済 新聞)

    携帯・パソコンなどのモバイル系の機器はワンセグ対応などの普及によって電力消費は増す一方である。ワンセグを利用した場合、待ち受けのみのときと比較して電池の持続時間は100分の1に低下する。小型軽量の補助電源に対する需要は急速に高まっている。小型燃料電池 は2010年に本格普及すると見られており、日立は他社に先行することにより30%の市場シェアを目指している。

    発売するのは直接メタノール型燃料電池(DMFC, Direct Methanol Fuel Cell)とよばれる方式の電池である。直接メタノール型では燃料極にメタノールが供給されてメタノール内の水素と水分子内の水素から電気(=電子)が放出される。
    燃料極:CH3OH+H2O → CO2+6e-+6H+
    空気極:6e-+6H++3/2O2 → 3H2O

    燃料電池では燃料=電気であり、今回日立が発表した製品ではメタノールのカートリッジをいわば電気の缶詰として携帯することになる。 日立では自社ブランドでの販売のほかOEM販売、メーカーには電池セルでの供給も予定している。燃料のメタノールのカートリッジはコンビニや量販電気店などで販売される。

    今回の製品は携帯機器の充電のために持ち歩く「充電補助装置」である。しかしながら、燃料電池の強みは燃料さえ供給してやれば瞬時に発電が始まるリアルタイム性にあるだろう。

    よって、燃料電池としては外付け充電用ではなく内蔵型が本命である。同じ日立が2005年の展示会で携帯用の試作品を公開している(写真参照)。燃料電池を一度満タンにすると約10時間待ち受け 状態を保つことができる。しかし、ワンセグならわずか数分で終わり。この試作品はあくまで商品イメージを消費者に提供するための仕掛けと考えるべきであろう。
    【写真】2005年の展示会CEATEC JAPANに登場した携帯用燃料電池、ペン型のカートリッジから燃料のメタノールを注入しているところ(http://it.nikkei.co.jp/digital/special/より)


日本口琴協会2006年の活動 国際編(2)  直川礼緒

    サハで開かれた第2回大会に参加した際、実行委員長イヴァン・アレクセイエフに「日本でもいつか大会を」と言われ、あまり考えることもなく「30年以内にやります」と答えてからすでに15年が経過しようとしている。そろそろ本当に実現に向けて動きだすことを考えないといけない。その節には、読者諸氏にもいろいろとお力添えをお願いすることになるやも知れず、今からよろしくお願いしておきたい。

    国レベルの後押しを期待できる、口琴を国民楽器とするサハ共和国と異なり、日本における口琴の認識度はあまりにも低い。大宮氷川神社東遺跡からの発掘により、千年前にはすでに日本に存在していたことがはっきりしており、また江戸時代に爆発的な大流行があったことも滝沢馬琴らによる文献上で確認されているにもかかわらず、「日本の伝統楽器」「邦楽器」として認められていない。

    日本に伝えられてたかだか数百年の三味線に比べたら不当な扱いと言わざるをえない(決して三味線に恨みがある訳ではないが)。望みの薄い現状の中で、数少ない頼りの綱のひとつは、やはりアイヌ民族のムックリだろうか。

    何とか口琴の知名度を上げ、国際口琴大会を15年以内に日本で開く。これが今後の目標である。読者の皆様も、口琴に関する情報がもしあれば、どんな小さなことでも、日本口琴協会までご連絡いただければ幸いである。http://www.koukin.jp/ (完)
    【写真】ムックリを演奏する弟子シギ子氏 提供:筆者


チンギス・ハーン即位八百年のモンゴルにて(3)  M. エルデニバートル(大正大学非常勤講師)

    国際モンゴル学会(IAMS)の 第9回国際モンゴル学者会議は2006年8月12日に閉会したが、その後筆者は現地調査のため一週間程モンゴルに滞在した。はじめの二日間は主にウランバートル市内の書店を歩き回った。しかし、捜し求めていた資料は書店や文書館からではなく、意外にも街頭の書籍販売所から見つかった。この「想定外」の発見にはとても嬉しかった。

    8月15日、晴。筆者は友人ゲレルトさんの車に乗って草原に出かけた。それは、市内から車で一時間程の距離にある中央県セルグレン郡トゥグルグ村での「チンギス・ハーン800年目の帰還」騎馬軍団イベントを見るためであった。その途中最初に感動したのは、果てしなき草原に伸び伸びとして草を食む馬、牛、羊、ヤギの四種類の家畜を一度に目にした風景であった。筆者の故郷は中国の内モンゴルであるが、そこでは近年こんな風景はとても見られなくなってしまった。

    日本では、農耕文化を象徴する「五穀」という言葉があるが、モンゴル国でも内モンゴルでも奇しくも遊牧文化を象徴する「五蓄」という言葉がある。「五畜」とは、馬、牛、駱駝、羊、ヤギの五種類の家畜のことである。その日、駱駝の姿は無かったが、それにしても五種類の家畜の中から四種類を一度にして目にすることができ、牧童だった筆者の目には知らずしらず涙が霞んだ。

    8月16日から17日にかけて、筆者は日本で言う「モンゴル帝国の古都カラコルム」を訪れた。「カラコルム」は、現在のモンゴルでは「ハルホリン」と呼ばれており、ウブル・ハンガイ県のオルホン河のほとりにある。「カラコルム」は、「大モンゴル国」(1206-1271)第2代大ハーン、チンギス・ハーンの三男ウゲデイ・ハーン(在位1229-1241)が1235年に建立した国際都市であった。

    現在、その遺跡には、ウゲデイ・ハーン時代の宮殿跡と、有名な花崗岩の亀石(写真3)のほか、後世の1586年に建立されたエルデニ・ゾーという仏教寺院が現存する。これらの中、特に亀石は古都の象徴であり、エルデニ・ゾー寺はモンゴル国における最古の現存仏教寺院である。また、2006年8月10日に日本の小泉首相(当時)がモンゴル国を訪問する際、日本の支援による「カラコルム博物館」の建設が約束されたと伝えられている。

    今回のモンゴル国の旅の全体的印象は、2000年の時と比べれば人々が豊かになっているが、貧富の格差が非常に大きく、失業者がかなり多いようである。また、ウランバートル市の人口が百万まで膨らみ、地方からの移住者の「ゲル居住区」が拡大しつつある。

    これはまもなく全人口256万(2005統計年鑑)の半分に達する勢いであり、このままでは日本の国土の約4倍広さの国の人口の半分が首都に集中し、地方が空洞化する現象が起こるだろう。さらに、ウランバートル市には、中国企業と韓国企業の進出が著しく、特に町の主要所に中国人が経営する中華料理店、中国企業が経営するホテル、中国建設企業が行なっているという工事中の建物などが多かった(了)。


樺太紀行 第4回「にちろせんそうはじまったぁ」  若林 一平

    2005年は日露戦争講和から100周年、大東亜戦争の敗戦 から60周年の年であった。サハリン韓人会の林さんに出会ったのはこの年の9月6日、である。

    サハリンに来て思うのだが。日本は島である。しかし、サハリンは島ではなく大陸の続きなのだ。日本という島とは別の時間が流れている。林さんの日本語はソ連時代に40年以上に渡って事実上封印されていたのだ。

    ユジノサハリンスクの街を林さんのダットサンピックアップが走る。すぐ前をロシアの軍用車が走る。「ロシアの車はみったくない」と林さんは言う。「みったくない」は今やほとんど死語と化しているのだが。半世紀ぶりに聞いた立派な北海道弁である。見苦しい、格好わるい、という意味だ。道産子であるぼくにとっては実に懐かしいという気持ち以上のものをこの言葉から受けるのだ。瞬間、あついものがこみ上げそうになった。

    カールマルクス通りの南側にある「サイゴン」というベトナム料理店に入った。ロシア化しているのだが。味つけはベトナム風だ。ベトナムの餃子とスープを注文する。林さんは相当リラックスしてきて子どもの頃にうたった歌をうたってくれるという。ロシア人には聞かせられないと言いながら。「にちろせんそうはじまったぁ、さっさとにげるはろしあのへい」。まわりのロシア人は無論日本語は理解できない。

    その歌は大正から昭和にかけてうたわれていた「お手玉の歌」なのだ。元歌を再現してみよう。題は「日露戦争」である。
    一 一列談判(らんぱん)破裂して
    二 日露戦争始まった
    三 さっさと逃げるはロシヤの兵
    四 死んでも(死ぬまで)尽くすは日本の兵
    五 五万の兵(御門の兵)を引き連れて
    六 六人残して皆殺し
    七 七月八日の戦いに
    八 ハルピンまでも攻め込んで(寄って)
    九 クロポトキン(クロパトキン)の首を取り
    十 東郷元帥(大将)万々才(十でとうとう大勝利)

    林さんは不思議なひとだ。日本人に迎合してこんな歌をうたっているのではない。ただ強制された封印をちょっと解いて記憶を開放しただけだ。悲しんでもいない、怒ってもいない、実に淡々としている。間違いないのは生きる事を楽しんでいるという事実だ。

    ベトナム料理店を出て、カールマルクス通りからレーニン通りに出る。豊原駅を過ぎてすぐ右手に北海道拓殖銀行豊原支店の建物が見え る。現在サハリン州の美術館である。円柱のオーダーは大日本帝国の建築家達が好んだ様式だ。

    この建物を見ているだけで歴史の記憶についてのさまざまな思いがよぎる。華麗なオーダーの彼方に、林少年を裏切り、そして彼の父親を連れ去り死に至らしめた者たちの消しがたい罪行をまざまざと透視できるのだ。
    【写真1】レーニン通りにある旧北海道拓殖銀行豊原支店(2005年9月、筆者撮影)


キルギスへの誘(いざな)い 写真で見る中央アジアのオアシス09 若林一平

    イシククルのもてなし
    客人のもてなしは自然への感謝と祈りから始まる。一頭の子羊が丸ごと無駄無く調理されて食卓にならぶのだ。(写真:イシククル湖畔の民家 で 1998年、若林一平撮影)


ユーラシア短信 トルクメニスタンのニヤゾフ終身大統領が死去

    終身大統領として、北朝鮮と並ぶ特異な独裁体制をしいてきたトルクメニスタンのサパルムラト・ニヤゾフ大統領(66)が21日急死しました。2ケ月以内に大統領選挙が予定されますが、長年にわたる独裁下で野党は厳しく弾圧され、機能しておらず、後継問題をめぐって混乱が起きる可能性もあります。

    トルクメニスタンは、イランやアフガニスタンと旧ソ連圏の間に位置する戦略上の要衝で、世界有数の天然ガスの埋蔵量を誇り、その動向は周辺地域一帯にも影響を与えるとみられます。

    自らの肖像を紙幣に採用し、全国の各地に自らの銅像を設置したほか、自著「ルフナマ」をコーランに匹敵する書物として美化し、学校や職場で聖典として読むことを義務付けました。(編集部)


『夢』を取り戻せ、団塊の世代よ。『ツール・ド・シルクロード20年計画』と国際交流&環境調査 (1)  シルクロード雑学大学・長澤法隆

    シルクロードを旅したいと思い始めたのは、小学生の頃だったと思う。「『夢』は目的となり、いつの日か実現するものだ」と考えていた。だが、『夢』は忘れられ、いや「忘れていたことさえ」失念していた。仕事に追われていた(最近は、仕事を追いかけていただけと気づいた)のだ。再び『シルクロードへの夢』に気づいたのは35才。25年ぶりのことであった。

    その後、ラクダと共にシルクロードを3回旅した。中国の甘粛省の敦煌から、新疆ウイグル自治区のカシュガルまで西域南道を歩いた。風景、砂漠の民の暮らしの知恵、プラスチックなどのゴミの出ない循環型の暮らし、数々の遺跡、修行するイスラム教徒。どれもこれも刺激的だった。

    しかし、旅が終わっても『夢』に終わりはなかった。その先の風景、人間、暮らし、風、音、匂い、食べ物などが気になる。東から西まで、シルクロードを見聞したい。しかも、アレクサンドロス、法顕、玄奘など、古のシルクロードの旅人のように、自然を感じながら自らの脚力で旅をしたいと思いは募った。

    『ツール・ド・シルクロード20年計画』を思いついたのは、1992年の事だった。風や匂い、地球の凸凹といった自然やオアシスの雑踏を五感でキャッチしながらの旅に適しているのは「自転車旅行」か「歩く旅」。仕事も続けたいので夏休みを利用して「○年計画」。

    臆病なので一人ではできない、仲間を誘っての「シルクロード『夢』旅団」の結成。休暇の限界は、18日とした。日本経済は、当時、バブリーだったのだ。自転車で20年計画、歩きで40年計画という計算が成り立った。世代交代やライフプランを考慮して、20年計画となる自転車での移動方法を選んだのだった。

    18日間のシルクロード見聞を20年続けると360日となる。1年間もシルクロードを旅したコトになる。コツコツと『夢』に向かうことの大切さ、「継続は力なり」「ローマは1日にしてならず」も計画に匂わせることができた。

    さて、1993年に中国の西安を出発した『ツール・ド・シルクロード20年計画』は、2007年にイランのカスピ海沿岸を巡る準備を進めている。棚田や校倉造など、日本との共通した項目がこのエリアにはある。正倉院のガラスの器と同じ形をした切子の器が、カスピ海の近くの古墳から出土している。正倉院のガラスの器は、カスピ海から運ばれてきたのかもしれない。そんな文化交流の歴史に『夢』を馳せながら準備している。

    また、孤児院であやとりの交流。読み終えた日本語の本を5冊づつ持ち寄って、日本語学科に寄贈もしている。自分の著作物は、シルクロードにこっそりと配本されている。また、GPSデジタルカメラを利用して温暖化や異常気象の研究をしている学者へ、画像とデータの提供にも取り組んでいる。さらに、2006年からは、道路状況や気温などをホームページhttp://www.geocities.jp/silkroad_tanken/ に紹介し、次に旅行する人に、情報を提供する取り組みもスタートする。

    【写真】1998年、中国のアクスからカシュガルをめざしていた。100年ぶりの大洪水に遭遇。いたるところで道路が水没していた。手前は水溜まり。撮影:長澤法隆


編集後記:「農業研修の一環で青森県を訪れたキルギス共和国の研修生三人が12月11日、県庁で県幹部と懇談した。」と地元紙が伝えています。キルギスの農畜産業を振興し、カザフスタンなどへの輸出にも意欲を持っている三人は、弘前市や十和田市を回り、農産物や畜産物の生産、流通、加工販売などの現場を視察する、と報じています。(高橋)


発行:特定非営利活動法人ユーラシアンクラブ 発行人:大野遼住所:〒151-0053東京都渋谷区代々木2-13-2 第一広田ビルTEL:03-5371-5548 FAX:046-285-4895 E-MAIL:paf02266@nifty.ne.jpホームペイジ:http://homepege1.nifty.com/EURASIANCLUB/郵便振替:00190-7-87777ユーラシアンクラブ。会費、ご寄付はこちらへお願い致します。ご連絡はメールかファックスを希望します。

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